シェアハウスすることは、私の中で社会実践することと同義だ。

幸いにも(?)私は、プライベートスペースがないとしんでしまうタイプではない。人見知りも多分しない。

シェアハウスすること自体が、社会実践になると考える理由は主に4つ。

1つ目は、資本主義社会における共の創造価値について。

私は時折り資本主義社会に疲れるのです。別に敵視してるわけでもないしアンチでもないんだけど。資本主義を内面化した社会に疑念と不安を覚えた頃、これはどうしたものかと探って見つけたのは、シェア、贈与、交換の世界でした。資本主義が所有の原理で成り立っている中で、共有の原理が働く場をつくることは、それだけでプラクティカルに思えるのよ。どのようにプラクティカルか?って言ったら、私にとってはそうね、アジール的です。だって、びくともしない資本主義が寝そべるこの社会に反旗を翻そうなんて思っちゃいないからね。だからアジールだよ。

シェアハウスは名前の通り、共の性格を持った家です。共有で生きていこうよ。ゆるゆると。責任も分散。もっと卑近な例に落とし込むと、光熱費をひとりが払うより、使用量が増えても複数人で割った方が安いということ。特にでかい家は。

シェアハウスって世間的に比較的認識された単語だと思う。でもシェアハウスって、家のありようの、共有しているって側面を切り取って名付けてるのが面白いよね。同じ家で共に生活する中で生まれゆく様々な側面を、その代名詞にしてもいいけどね。例えばケアハウスとか。まあでも「状態としてのそれ」を説明するには最適なんだろうなぁ。

2つ目は、親密性実践。

この世には友達、恋人、家族、ペットなど様々な親密性のあり方があると思う。その中でも私は、近代的家族のあり方や近代的家族像に対して疑問を持っている。特に近代的家族に強固な社会的紐帯を築く、築かせることに限界を感じている。そう感じた背景には自分の家族のことがあるけれど、老老介護とかヤングケアラーとか、あらゆる形で限界の叫びが聞こえてきていると思っている。

だから既存の主流な親密性以外の、いわゆるオルタナティブな親密性って現実的にどうなの?ぶっちゃけどれくらい可能なの?って探りたい。

3つ目には、若者単身移住者の住環境づくり。特に「若者単身」は、あえて意識したい。何故なら社会的に生き延びる力が、弱いことが多いから。私の友達も同じく地方に単身移住したのだけど、特に雪がある時は外に出ず一言も喋らず終わる日が多くて、冬季鬱っぽくなったそう。若者単身移住者の住環境の選択肢が、町営住宅ひとり暮らし以外にない地域も多い気がする。初っ端、古民家DIYなんていうのも資本がない若者にはきちい話だ。ほんで町営住宅でひとり暮らし始めたら、そこで待ってるのは孤独だったり。だから、若者単身移住者として創造的に住環境をつくれないものか?と思うわけです。

あと、過去の自分が心にいるんだと思う。池田町に住みたくて、数週間の長期滞在をしてみたかったけど、選択肢がなかった自分へ。低価格でお試し移住的なことができなかった残念さに、2度目はなくていいさ。(私が何度目だったのか知らんけど)これに関しては別に「若者単身」を意識しない。池田町という場所を、もっと多くの人に楽しんでもらいたい。ちょっと長く居てみたいなと思った人が、実際に行動に移せるように。そのためには、選択肢が多く存在していた方がいい。受け皿があるところに、人は集まる。

4つ目。生き延びること。

物理的にひとりにならないこと。

心に闇はあるものだと思う。別に無くすべきものでもないと思う。ただ、その闇が、自分を食うことが時として起こるということを、私たちは十分に知らなければならないと思う。ニュースになった数日間だけでなく。ひとが生きることの脆さを、同時に心に留めておきたいと思う。

私はinter-beingという考えが好きだ。ティックナットハンが提案した。「相互共存」「相互依存」などと訳される。この世の全てが切っても切れない相互共存の関係性の中で、生きているということ。私の大切な親友が、この概念に出会わせてくれた。